突然の試練、忘れられない記憶

 ごくごく普通の家庭で不自由なく育ちました。状況が一変したのは、高校に入学した頃です。父が保証人で多額の借金を背負ったことから、両親の喧嘩が絶えなくなりました。昼間は母が取り立ての対応に追われていたようです。夜、父が仕事から帰ってくると、台所から両親の喧嘩の声が聞こえてきます。耳をふさぎたくなる、そんな日々が続きました。

 ある日学校から帰ると、家の中の家具に裁判所の差し押さえの赤札が貼られていました。「これからどうやって生活していったらいいのか分からない・・・」母親に泣きつかれたあの日の光景が忘れられません。

挫折・上京・不安の日々

 大学受験にも失敗しました。逃げ出すように上京し予備校に通いました。自宅を手放し借金を清算した残りのお金で学費を出してもらったのですが、暫くすると仕送りも遅れがちになりました。

 ガソリンスタンドでアルバイトをしながら、先の見えない不安を抱えていた19歳でした。今振り返ると、苦学してでも大学進学を目指すという覚悟もなく、親のせいにして現実から逃げていたと情けなく思います。

人生の不思議、まさかの・・・

 そんな時、県議会議員をしていた伯父が宮崎市長選挙に立候補することになりました。突然父から「予備校を辞めて宮崎に戻り選挙の手伝いをしろ!」と連絡がありました。この時 伯父の運転手として選挙に関わったことが、その後の私の人生を大きく変える ターニングポイント になりました。

生まれて初めて間近に見た「政治家」の活動。有権者に対して自分の考えを伝え、共に社会を良くしていこうと訴える伯父や周りの大人たちが輝いて見えました。昭和61年7月27日、開票結果は「落選」でした。大淀川の河畔で悔し涙が止まりませんでした。「将来必ず宮崎の人を幸せにする政治家になる!」その時の決意が、今も私の「原点」です。

大志を胸に大阪へ

 周りから「政治家を目指すなら、地元国会議員の秘書をするのが近道」とアドバイスされましたが、宮崎を離れ民間企業で働く道を選びました。「政治の世界しか知らないのでは良い政治はできない。」その時20歳。若いながらにそう考えたんですね。

 地元企業の大阪支店に就職。その後、大手銀行系列の不動産会社に転職。いずれも営業職でした。「靴底をすり減らしてなんぼ」の 泥臭い「営業」の日々。苦労も多かったですが、お客様のお役に立つことの喜びの方が大きかったですね。「商いの町」大阪で、お客様に選ばれるために努力するというサービスの基本を叩き込まれたことは、その後の議員人生の土台になっています。

夢があると行動が変わると実感

 学生時代は勉強嫌いの私でしたが、目標が明確になると人間変わるもんですね。「35歳には宮崎に戻り政治家を目指す!」そのために、苦手だった本も読むようになりました。

 毎月給料日には新大阪駅の本屋に行き「政治、行政、自己啓発」関連の本を購入しては読みふけりました。20代の頃は、大前研一氏、岩国哲人氏の本に影響を受けたものです。目標があるからこそ努力できる。努力が苦にならない。このことは私の人生において大きな教訓になっています。

「政治家の妻になって!」とプロポーズ

 27歳の時に看護師をしていた妻と出会い結婚。プロポーズの言葉は「将来宮崎に帰って政治家になる目標があるが、それを承知で結婚して欲しい!」今思えば相当わがままなプロポーズでしたが、受け入れてくれた妻の度量に感謝しかありません!3人の子どもにも恵まれ、38歳になる春に宮崎に帰郷することを決断しました。

 16年間暮らした大阪でしたが、たくさんの仲間との出会いがありました。送別会をしてもらった寿司屋の店先で、生まれて初めての胴上げを経験。「夢に向かうお前を大阪から応援しているぞ!」あの夜の仲間たちの言葉が、帰郷後の辛い時期の支えとなりました。

市議会議員選挙までの3年間

 38歳、ゼロからのスタートでした。月見ヶ丘の借家に住み、政治家になるための新しい生活を始めました。3年後の市議会議員選挙を目標に、小学校のPTA活動や自治会活動をしながら周りの皆さんに思いを伝えていきました。今も毎週 月曜日と水曜日の朝に続けている「あいさつ運動」を始めたのも、この頃のPTA活動がきっかけでした。

 蓄えた貯金も底をつき親の助けをかりて持ちこたえた苦しい時期でもありました。家族にも苦労をさせました。真夜中に妻から起こされ「お父さん、この先不安で眠れない。落選した時は大阪に帰るから!」と泣きつかれたこともありました。何の保証も後ろ盾もないわけですから不安になるのは当然だと思います。あらためて家族の理解と協力がなければ歩めない道でした。

 「よくやれたな~」と正直思います。選挙事務所も初心者の方ばかりで、選挙カーのウグイス嬢もPTAのお母さんたち。素人集団での選挙でしたが、1市3町合併後の定数46名に66名が立候補する大激戦の中、14位で初当選させていただきました。平成19年4月22日40歳の春のことです。

がむしゃら新人議員に市長選出馬要請?!

 20年越しの目標です。一日も早く一人前の市議会議員になるために勉強することは山のようにあります。当たり前のように、遅くまで市役所に残って仕事をする毎日でした。そんな生活が2年程続いた頃、任期満了に伴う宮崎市長選挙が近づいてきました。

 そこで思いもかけないことが。なんと市議会議員2年そこそこの私に「市長選に出てみないか」との誘いです。「冗談でしょ?」候補者としての実力、経験とも不足していることは自分が一番分かっています。当然断りました。「それでも」と度重なる誘いを断り続けましたが、当時中学3年生で高校受験を控えた長男から「お父さんに期待して声をかけてくれているんだから、それから逃げたら駄目やろ。」の一言。悩みぬいた末に立候補を決断しました。

 20年越しで叶えた市議会議員の職を突然辞めることになりました。議長室に挨拶に行った時には涙をこらえきれなかったです。(案外泣き虫です)

不思議な巡り合わせ、市長選挙で見た大海

 伯父の市長選挙がきっかけで政治家を目指し、市議会議員になった途端、今度は自分が市長選挙に出馬することになったわけです。不思議な巡りあわせを感じました。

 泣いても笑っても3か月半の戦いでした。2年半前の「手作りの市議選」とは違い、各種業界の方が沢山事務所に入って行われる選挙のやり方や体制の大きさに度肝を退かれました。精一杯の選挙運動を行いましたが、結果は落選。あらためて、実力、知名度の不足を思い知らされました。

 一生懸命応援していただいた方々には本当に申し訳ない思いで一杯になりました。しかし、この経験は視野と意識を大きく変えるきっかけになりました。「市議会議員の46人分の1」という意識から「自分が市長だったら」と考えるようになりました。

落選、浪人、かけがえのない出会い

 浪人生活となりました。「さあ、どうするか?!」 ここで貴重な出会いがありました。友人から、熊本市で開催された「龍馬プロジェクト」という集まりに誘われました。半信半疑で参加したのですが、全国の議会で信念をもって活動している若い政治家たちの存在を知り衝撃を受けました。

 その活動に参加するようになり、多くの「志」をもった仲間と出会いました。大阪時代もそうでしたが、「仲間」の存在はありがたいですね。この浪人時代に、互いに切磋琢磨する素晴らしい「仲間」に出会えたことが第2のターニングポイントになりました。またその縁で「林英臣政経塾」に入塾。東西文明の法則史学や「和」と「共存共栄」を軸とした共生文明等を1年間じっくりと学ぶことができました。

 振り返れば、伯父の市長選の時に芽生えた「情熱」で突っ走ってきました。自分自身と向き合い、「師」と「仲間」を通じて「理念」「ビジョン」そして「志」を明確にすることができました。「自分に与えられた使命」つまり「天命」を意識するようになったのはこの浪人生活のおかげです。

再起をかけた2度目の市議会議員選挙

  県議会議員選挙に出ることも勧められたのですが、自分の原点である「宮崎市を良くしたい!」との考えから、再度市議会議員選挙に出馬することを決断しました。市長選に挑戦した貴重な経験を現場で生かす意味でも、市議として出直したいとの強い思いもありました。

 市長選挙を通じて出会った支援者の皆様が、私をもう一度市政に送り出そうと懸命に動いてくださいました。平成23年4月24日、思いもしなかった4,925票でのトップ当選。涙が出るほどの感謝とともに、身の引き締まる思いでした。この日は、私の45歳の誕生日。政治家として新たに生まれたような、忘れられない一日となりました。

その後、3期、4期と毎回トップ当選という力強いご支援をもって市議会に送り出していただきました。「宮崎市を良くしたい!」という私の思いに共鳴、賛同、期待する方がこれほど大勢いらっしゃるんだ!と感動しました。本当に感謝であり、責任の大きさをひしひしと感じます。

「天命」を感じつつ

 私自身は、特別な才能もなく、もちろんエリートコースとは全く無縁、挫折ばかりの人生を歩んできました。「立場」や「組織」があるわけでもありません。ただ「情熱」と「志」だけで突き進んできました。誇れるのは、自分のことのように骨身を削ってくれる「仲間」と支えてくれる「家族」の存在だけです。

 そんな私も、おかげさまで市議会議員として経験を積ませていただきました。「宮崎市を良くしたい!」「そのために何が必要か?」「今何をするべきか?」あらためて自らの「天命」に照らして自問自答しながら活動する毎日です。

 見た目とは違って(?) 全く “スマート” ではなく、名もない“雑草”「サイトウ・リョウスケ」の半生の一端を書き綴ってみました。このストーリーはまだまだこの先も続きます。一度しかない人生を使って、「天命」を果たすために懸命に働きたいと思います。生身の「斉藤了介」を見かけましたら、いつでも気軽に声をかけて下さるとうれしいです。一緒に、「素敵な宮崎」にしていきましょう!

追記

 2021年6月24日に宮崎市長選挙への立候補を表明し、11月21日には皆様のお力添えのお陰で拠点となる事務所も開設することがで出来ました。これから愛する宮崎への思いを市民の皆様に訴えて、宮崎市を日本一素晴らしい元気な社会にしていく為に活動して参る所存です。今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします。

追記2

 35年前、20歳の時に、大淀川に向かって心に誓った「宮崎市を良くする政治家になる!」という決意、己の「天命」を一日も忘れたことはありません。12年前の市長選挙は、己の力不足で叶いませんでした。この12年間、市議として宮崎市民と向き合い続け、十分に知識と経験を蓄積してきました。

そして今、宮崎市民の幸せを実現するために、「宮崎市長」になる決意を固め、2022年 宮崎市長選挙に立候補しました。

どんなに立派な理論や施策も、それをやり抜く“熱い情熱”がなければ実現できません。

斉藤了介は必ず約束を果たします!
斉藤了介に宮崎市の未来を託してください!
そして、斉藤了介とともに、宮崎市をすばらしい社会にしてまいりましょう!!

追記3

 2022年1月23日 宮崎市長選挙の結果は、落選でした。宮崎市長としてすぐにでも働く“覚悟と準備”はできていただけに悔しさもひとしおです。「宮崎市を素晴らしい社会にしたい!」という私の“志と情熱”は消えるどころか、益々“高く熱い”ものになりました。これからも「政治家・斉藤了介」として、“己の天命”に従い全力で活動してまいります。引き続きのご支援を宜しくお願い申し上げます!

斉藤了介